主催ってこんな感じの焦燥があるよね(日記)
久しぶりにブログを書く気になった。
周期的に起きる謎のブログ欲ってどうにかして
1週間から1カ月位にまとまらないもんかな。
1カ月位ブログを書き続けたら自分も
ひとかどの人物になったような気がすると思うのだけど。
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先日、北陸オカルト会初のコラボイベント
「大聖寺怪談夜話」が無事終了しました。
共催の北陸怪談研究会さん、何より
ぐだぐだな進行に付き合ってくださった
参加者の皆様には本当に感謝しています。
ありがとうございました。
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でも、今日書こうと思っている事はイベントの成功失敗とか
今後の教訓にしようとかそういった話ではなくて。
今回のイベントを通して、オカルト会の主催として
ずっと喉に引っかかっていた魚の小骨のような焦燥。
その感覚に個人的に折り合いがついたかなということを
文章化して落とし込むために久しぶりにブログを書くことにした。
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さて、~~のイベントの主催の方に質問です。
一度でもこんなことを思ったことはないだろうか?
「~~のイベントを主催するなら、~~に詳しくなきゃな」
え、ないよ?という貴方はそのスタンスの方が幸せだと思うので、
どうかそのままでいてもらいたい。皮肉ではなく心からそう思う。
今思えば この感情は要するに
見栄を責任感という聞こえのいい言葉にコンバートしただけだった。
主催は一流のプレイヤーで無ければならない、そんな道理は一切ない…と思う。
(勿論イベントでする事のルールがわからなくていいとか、そういう話ではない)
主催は手間がかかる、日程を決めて会場を決めて人を集めて…とにかく手間がかかる。
そんな手間をこなしながら自身も一流のプレイヤーなら確かに凄い。
ギャルゲで女の子の好感度を教えてくれる上に自分も攻略対象の子のようなものだ
マイティソーの戦闘能力を持ったキャプテンアメリカのようなものだ、凄い。
確かにそれは称えられるべきことだが、betterであってmustではない。
しかし、大聖寺怪談夜話を終えるまで自分はそれがわかっていなかった。
要するに自分は「主催ならオカルトに詳しくなければ」という
謎のプレッシャーに追い詰められ 、関連書籍を読み漁っていた。
それ自体はいいことなのかもしれないが、自分は焦燥からそれを行っていた。
趣味の楽しみ方としては非常に不健全な感情だと思う。
そんな中、オカルト会や大聖寺怪談夜話には様々な人が来てくれた。
廃墟探索に魅力を見出した人、怪談をいきいきと語る人
体験談を語ってくれる人、鋭い意見がぱっと出てくる人
みんなオカルトや怪談が好きで集まった人たちだったように思う。
そんな人たちと出会い、座談会をする中で先日やっと自分は理解した。
座談会を作るのは自分ではない、参加した人たちだ。
同時に恥ずかしくなった、自分は講演会でもするつもりだったのかと。
そして荷が下りた、一番重視するべきだった当初の目的を思い出した。
自分はオカルト趣味の社交場を作りたかったんだ。
これからも自分はオカルト趣味であり続けると思う。
そして、色々な形でホラー・オカルトが好きな人が
楽しめるような場を作って行きたいと思う。
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自分の気持ちに整理をつけようと思ってこの日記を書いた。
貴方が焦燥から趣味に取り組むようなことがあったら思い出して欲しい。
それは見栄です、貴方は見栄に追い詰められている。
見栄見栄見栄見栄見栄見栄見栄見栄見栄見栄。
さあ、当初の気持ちを思い出しましょう。+
純粋にそれが好きだから、広めたいから共有したいから
イベントを始めたのではないでしょうか。
あ~~~~~、すっきりした。